こんにちは!みっきー(@mic32ki)です。
あれこれ試す僕のプロフィールページです。
■目次
概要
1989年12月生まれ
大阪府阪南市出身
身長:180cm 体重:100kg 服のサイズ:XL 頭周り:62cm(XL)
性格:内向的で繊細だが、「ウェーイ!!」ともなる(HSPかつHSS)
幼少〜中学校
幼少〜小学生
大阪のほぼ南端、阪南市の海の近くの町に生まれる。
ロボットアニメとブロック遊びと恐竜の図鑑が好きな子供。
運動神経は悪く、逆上がり、のぼり棒、二重跳びができませんでした(今もできない)
小学校は1クラスだけで、35人ほどの小さなクラスでした。
当時は海辺で遊んだり、テレビゲーム、カードゲーム等をして遊んでいたので、インドア、アウトドア半々で遊んで過ごしました。
空手、そろばん、習字・・・友だちとの遊びの延長として様々な習い事に興味を持つが、長続きはせず・・・。
小学校高学年ごろこら人を楽しませることが好きで、先生や友達にボケをふっかけて笑いを取りに行ってました。
小学5年生のときに両親が離婚、以降弟とともに母方に引き取られ育つ。
中学生
地元の公立中学に進学。中学は3クラスで3クラス合わせても約90人でした。
小学6年生から野球を始めたので、部活動は野球部に所属。しかし、一度もレギュラーで試合出場することができませんでした。
最後の試合で代打出場させてもらえたが、サードゴロでアウトになり、4年間の野球人生に幕を下ろす。
人生で初めての挫折を経験しました。
塾通いをしていたおかげで成績は90人中15〜20位で、上位をキープ。
私学への進学を歓迎されない家計事情をくみ取り、確実に合格できる公立高校を受験し、進学。
この頃の、将来の夢は公務員(ただの身分へ憧れ、かつ親の洗脳)。
高校
特に考えずに進学した高校でしたが、高校生活は新しい刺激にあふれ、それまでの自分の価値観が大きく変わった期間でした。
スーパーの食品売場のアルバイトを始めたり、バイクに興味を持ったり、まったくの未経験で高2から水泳部に入ったり。
特にバイクは自分の運転で行動範囲が広がることに感動。
一方、勉強する習慣と目標がなくなり成績が著しく落ちる。
定期成績順位は240人中200番代、クラスでは最下位争い。
高校卒業後は働くものだと思っていたが、進学を考えていた友人たちの影響を受け、高校卒業後の進路を進学に設定。
ゲーム「逆転裁判」と法務局での事務パートをしていた母親の話から、弁護士や法律専門職に憧れを持ち、関西大学法学部への進学を目標とする。
バイトを辞め、塾通いはせず、学校の勉強と自習で受験勉強を開始。
しかし、3年生の学校祭が盛り上がる学校だったので、夏休み前から学校祭の準備に力を入れるようになり、学校祭にかける時間が大きくなっていました。
学校祭後も燃え尽きることなく、自習室で閉館まで勉強。
関西大学を受験するも、不合格。
3年間の不勉強のツケは拭えませんでした。
すべり止めを一切受験しなかった為全滅、進学を諦めることができず浪人生活へ。
2回目の挫折と人生のレールから外れる経験を初めてしました。
大学受験浪人 予備校生
勉強に専念するため、予備校で友人は作らず、当時流行っていたmixiを辞め、予備校で朝から夜まで勉強。
殺気立ったオーラが出ていたようで、浪人期間に撮影した大学の学生証写真は犯罪者とか言われていました。
目標を上げ、大阪市立大学の法学部に設定するが、苦手意識が強くあった数学を克服できず。
夏前に私立文系志願に転向、同志社大学、関西大学を目標とする。前回の反省から、すべり止めも受験。
1日12時間勉強をして、関西大学法学部にリベンジ合格!
大学
大阪の関西大学に進学。実家からの通学が進学条件だったので、片道1時間40分かけて大学まで通学しました。
道のりは約70kmで、ほぼ大阪縦断。
念願の大学生活のはじまり
再びアルバイトをはじめ、定期代、教科書代、交際費などを稼ぐ為、飲食店と野球場のVIPルームのアルバイトを掛け持ち。
大学とバイトのと講義はきちんと出席し、ノートを取る。
が、初めての大学の試験で専門科目を10単位落とす。1回生の秋学期前にして、いきなり五カ年計画。
この時に、自分の物覚え悪さ、要領の悪さ、そして「自分の理解に落とし込めず、やった気」な性分気づきます。
その後、友論述試験の練習を単位認定ギリギリの成績しか納めることができませんでした。
司法試験を受ける上で、必須となる法科大学院への進学、法律職への道を諦めました。
自分としてはやりきったので、今回の挫折は受け入れることができました。
1回生〜2回生 クソ真面目な大学生活
自分の将来2回生以降は、興味のあることにとりあえず参加してみるスタンスで議員インターンシップに参加したり、ゼミ長に立候補したり。
人との出会いや、今まで知らなかった世界が知れることが非常に刺激的で、興味があることには参加していました。学内、学内活動に参加していました。
民間企業に就職するかを考え民間企業への就職することに決定。
当時リクナビ、マイナビがオープンする3回生の12月に就職活動を始めました。
リクルートスーツを着て、ナビサイトでエントリーし、会社の説明会に参加。
商材のイメージがしやすく、ビシっとスーツを着ていた商社マンに憧れ、機械、電気、金属など有形商材の商社やメーカーの営業職を志望するようになりました。
就職活動編 働くことにつまずく
2012年の4月選考解禁。書類がまったく通過しなかったので面接すら呼ばれず。
ただ、身近の友人で内定をもらった人間は少なかったので、焦りはありませんでした。
5月頃から10社エントリーして1社の割合で呼ばれるようになるも、面接がクリアできず。
4回生の春学期時点で卒業単位を取り切れていなかったので、一旦就職活動の時間を減らし、6月から学業への比重を大きくしました。
試験が終わり、ゼミ以外の単位を取得。卒業がほぼ確定に。
8月になる頃にはジャケットを羽織って、ネクタイを締めるには、暑すぎる季節。
夏採用の求人はあり、最終面接まで進むようになるが、内定はなし。
就活で苦戦していた友人も就職が決まり就活を終えていく中、先が見えないまま大学生活最後の秋学期を迎える。
4回生の秋になる頃にはナビサイトの求人数が目に見えるように減っていっていました。
気持ちに余裕がなくなりはじめ、求人の探し方がわからず、ところ構わず受けるようになる。
就職活動を始めて、およそ1年の11月ごろコピー機販売会社の営業職の会社から内定を頂きました。
しかし内定をもらってから、どこでもいいから内定が欲しい状態に陥っていたことに気づき、辞退する。
最終面接待ちの会社が4社あったが、すべて最終面接で不採用となる。
気持ちは沈みこむようになった上、バイトの通勤中に足を骨折し、どん底のさらに底まで落ちることとになる。
年明けの2013年、1学年後輩の2014年卒向けの就活が盛り上がっていく、友人たちが卒業旅行に行く学生最後の冬休み、手探りで2013卒者向けの求人を手探りで探し受けるも3月で大学卒業し、
学生時代最後の サークルの追いコン、謝恩会、飲み会 大学生としては最後の友人たちと過ごす時間を過ごし、
2013年4月、僕は新卒で無職となりました。
就職浪人・フリーター
2013年 既卒就活1年目 〜就活ゾンビ〜
生活費や就活の資金をやりくりするために学生時代のアルバイト先に出戻り。就職浪人フリーターとなりました。
既卒者向けの人材紹介会社に登録し、求人の紹介を受け最終面接まではトントン拍子で進むも、最終面接で不採用が続き、内定はとれず。
SNSや、集まりなどで社会人生活をエンジョイして友人たちの姿と自分を比べてしまい、惨めな気持ちになっていました。
やがて、気が滅入り、ストレスから瞼のけいれんが起こるようになっていました。
今でこそわかることですが、気が滅入っていると、負のオーラが表情に出てしまい、顔を合わせて行う面接では「元気のない人」、「暗い人」、「病んでいる人」とネガティブ面が強く伝わってしまい、その結果受かるものも、受からなくなるんですね。
就活から距離を置いて、心を休めなければならないときが来ていたのですが、
自分の本音にフタをし、心にむちを打ち、来る日も来る日もゾンビのようにオフィス街をさまよい続けていました。
2014年 既卒就活2年目 〜WEB業界の衝撃〜
2012年も暮れに差し掛かった12月、紹介会社経由でWEBサービス企業をの企画職を紹介され、会社訪問をした時に衝撃を受けました!
スタイリッシュな内装のオフィス、スーツではなく私服での勤務、透明性のある消費者志向のインターネットのサービス。
今まで就職活動で訪問した会社を見てきて、自分が思っていた仕事のイメージを覆す会社でした。
同時にここで働きたいと心惹かれました。
今までの負の感情が一気に吹き飛び、選考へ入念な準備をして、心の底から溢れ出る熱意を持って面接に臨みました。結果は不採用。
ショックでしたが、その後はWEB業界に心を惹かれるようになりました。
しかし、WEB業界の求人は経験者のエンジニア職やWEBデザイナー職の求人がほとんどで、
文系で、プログラミング、WEBデザイン未経験者ではまともにエントリーさえできない状況でした。
そこで求職者向けの職業訓練を知り、2015年の5月から5ヶ月間WEBプログラミングの職業訓練を受けました。
HTML、CSS、PHPなどWEB制作のプログラミングを学びました。
訓練終了後はアルバイトを辞め、覚悟を持って就職活動に専念。
訓練校に採用活動に来ていた企業の面接を受け、大阪に事業所があるITエンジニア派遣の会社から内定を得てITエンジニアとして入社することになりました。
2年遅れの社会人
1社目 40日で退職
入社して5日でヤバイところへ入ってしまったと思いました。
- 堅すぎるドレスコード
- 社内の雰囲気の重さ、堅苦しさ
- 不透明さが目立つ社内対応
特に最後の社内不透明性は際立っていました。
事前の知らせもなしに「転勤になった」という言い分で、いきなり人が消えていきました。
そして自社の社員なのに、情報セキュリテ保護の名目でマネージャーや営業のデスクに近づくことさえ許されませんでした。
仕事のことで席まで行ってるのに、席に行くと近づくなといわれる。アホくさ。
職場環境との相性が悪く、日に日に気が滅入るようになってきました。
休みの日も気分がふさぎ込むようになり、研修(自習でほったらかしだったけど)がまったく頭に入らず、精神的な限界が来ていました。
ある日マネージャーと営業に呼び出され面談、限界である旨を伝え翌日に退職手続き。
就職活動に3年近くかけ、ようやく決まった仕事でしたが、2ヶ月で退職することとなりました。
2社目 コネ入社
1社目を退職後、父親に飲み会に呼ばれたのをきっかけに、親の友人の会社を手伝うことに。
営業をやってみたかったこともあってチャレンジすることになり、通信キャリアのインフラ整備の営業職をはじめることになりました。
協力会社の社員として元請け会社に出向し、プレイングマネージャーの社長に同行しながら営業について学びました。
仕事ぶりはTHE 普通。営業成績はトップではないが、ビリでもない、中庸。
1年半年ほど勤めて、自分の中の違和感を感じるようになります。
- 電気工事の知識を深めることに興味が持てなかったこと
- 仕事を取れば取るほど、増える煩雑な事務作業と拘束時間
- 40〜50代が多い職場環境で、仕事以外の話が合わないこと
- 隣の席の人が常に怒られていてストレスだった(自分も同じように怒られるんじゃないかと将来を悲観した)
また職場のイスと体の相性が悪かったようで、腰痛や肩こりに悩まされていた(ギックリ腰にもなった)
心身ともに消耗していき、やがて職場に行くことに息苦しさを感じるようになり体調を崩す。
1ヶ月休職し療養したが、戻る気が起こらずそのまま退職。
これから
2ヶ月のニート期間を経て
現在、千葉県富津市の金谷に滞在し、田舎フリーランス養成講座に参加中